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面白かった映画と海外ドラマの感想を気ままに綴るブログです。

「X-MEN ダーク・フェニックス」(映画)感想 ~X-MEN20年の完結を背負ったソフィー・ターナーを称えたい【おすすめ度:★★(+★)】

20世紀フォックスがディズニーに買収されるという、映画業界史上最大級のニュース。

見え隠れする“大人の事情”に振り回されたシリーズの“完結編”は、長きに渡るシリーズにおいて「何をみてきたか」「どの時代に思い入れがあるか」によって、相当評価が分かれる作品となりました。

 

★X-MEN ダーク・フェニックス

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監督:サイモン・キンバーグ

キャスト:ジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ニコラス・ホルト、ソフィー・ターナー、タイ・シェリダン

 

◆予告編◆

www.youtube.com

 

◆あらすじ◆

大統領とのパイプラインもしかれ、その活躍ぶりから“スーパーヒーロー”とさえ呼ばれるようになり、もはやかつての迫害の気配は消え去ったかと思われたX-MEN。

しかし、とある宇宙での飛行士救出ミッションで一人逃げ遅れたジーン・グレイは太陽フレアを浴び意識を失ってしまう。

無事地球へと戻ったジーンとX-MENたちだったが、その事故のせいでジーンの心の闇の中に眠っていたもう一人の人格「ダーク・フェニックス」が覚醒してしまい…。

 

◆感想(軽いネタバレあり)◆

冒頭でも述べた通り、とにかく「X-MENに何を見出していたか」によって、相当評価が分かれるであろう作品。

大前提として、シリーズであるはずの前作、前々作などとの整合性は破綻しているので(これはもうこのシリーズのお決まりになりつつありますね)そこが気になってしまう方はおそらく全然受け入れられないのではないでしょうか。

正直、他にも細かくマイナス点をあげていけばキリがありません。

キャラクターの一貫性が失われていたり、そもそも動かし方が脚本上の装置的な扱いになっているキャラクターがいたり。

極めつけは「大団円になっていない」こと。

ただこればかりは、ディズニーによる買収によってアベンジャーズ本体への合流をさせる必要があるために現行シリーズを打ち切らなければいけなかったという超絶大人の事情もあるはずで、現行シリーズの制作陣に文句を言ってもしょうがない部分も多少あるのではないかと思っています。

買収前から完結編の想定だったのか、買収後の決定なのかはわかりませんが、本作がなんともいびつで評価しにくい作品になってしまったのは認めざるをえません。

 

それでも私が本作を擁護したいのは、この新世代キャストによるシリーズが、アメコミ映画というジャンルにおいてここまで「演技力」で魅せるシリーズとなったこと、そしてそのキャストたちがシリーズを重ねるごとに成長し、力をつけ、ブレイクしていく姿に物凄く魅力を感じてしまっているから。

そして、虐げられ拒絶されてきたものの苦しみと許しというジーン・グレイが本作で体現する物語は、まさにX-MENシリーズが描き続けてきた物語の根幹であり、それを若手女優ソフィー・ターナーに委ねた姿勢にもまた、物凄く魅力を感じています。

 

思えば、新世代キャストで始まった「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は紛れもない傑作でした。

 

1962年のキューバ危機という歴史的事実を背景に、その裏にはミュータントたちの抗争が巻き起こっていたとする脚本構築のあまりの上手さに舌を巻き、そしてジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ニコラス・ホルトという若手キャストのミラクルなケミストリーに、「X-MEN、やるなあ」と思ったものです。

チャールズ・エグゼビアとエリック・レーンシャー、根本は同じでありながらも、「どうあるべきか」において意見を異にし、道を違えていく在りし日の兄弟のような男2人の友情と別離を、あそこまで鮮明に描いた作品はなかなか他に思い浮かびません。

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しかし「~フューチャー&パスト」「~アポカリプス」と、個人的には「~ファースト・ジェネレーション」を(全く)超えられない作品が続き若干トーンダウンする中で、それでも本シリーズを見逃すことができない大きな理由は役者たちの成長と飛躍でした。

円熟味を増してオリジナルシリーズのパトリック・スチュワートとイアン・マッケランに近づいていくジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダー、そしてオリジナルシリーズとは違うキャラ造形ながら有無を言わせぬ説得力をみせるジェニファー・ローレンス。

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さらにタイ・シェリダン、コディ・スミット=マクフィー、そしてソフィー・ターナーという、「オリジナルシリーズの人気キャラの若かりし頃」として登場した3人もまた、その面影も持ち合わせつつフレッシュで彼らなりのスコット・サマーズ、カート・ワグナー、ジーン・グレイを作り上げていたと思います。

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だからこそ、その中でソフィー・ターナーにここまでフォーカスしてシリーズ約20年の集大成をゆだねたサイモン・キンバーグの決断と、それに答えたソフィー・ターナーの渾身の演技にはぐさぐさ心を揺さぶられました。

「ゲーム・オブ・スローンズ」でずっとソフィーを見ている身としては、ほんと演技上手くなったな…と感嘆せずにはいられません。

あの美貌とあの貫禄は女優として掴みとった武器であり、それをジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、そしてジェシカ・チャステインと並んでも引けを取らない存在感として臆せず出し切る姿には本当に涙が出そう。

本作はオリジナルシリーズでジーンを演じたファムケ・ヤンセンが持つ雰囲気では成立しない物語で、ソフィー・ターナーが演じるジーン・グレイだからこその説得力がありました。

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ただ、物語がジーン・グレイに寄せきった事で、「物理的なX-MEN全体の闘い」を求めていた大多数の人の見たかったものにはなっていないのだろうし、整合性をとらずにきたシリーズ全体のつけが最後の最後に最も大きく出てしまったという事は事実。

なので、世間が本作を酷評する気持ちもわかるし、事実脚本としてはもうちょっとどうにかならなかったのかね?という点もいっぱい指摘したい。

ただ、それでも嫌いになれない、そっと包み込んであげたい作品です。

 

全体的にアクションはかなり良かったなあ。

特にクライマックスの列車での一大バトルシーン。

磁力を操るマグニートーが魅せる無双っぷり、X-MEN同士の連携プレー、「走る列車の中」というダイナミックで躍動感ある舞台設定も活きていて、アクションが地味目な本シリーズにおいてはなかなかに見応えのあるシークエンスでした。

 

今後またキャストを刷新してアベンジャーズ本体へ吸収されていくのであろうX-MEN。

いびつな纏め方ではありましたが、X-MENの約20年間で描いてきたテーマを「ジーン・グレイを描くこと」を通して貫ききった初志貫徹ぶり、好きですよ、私は。

 

「X-MEN ダーク・フェニックス」は全国公開中。

 

※画像は全てimdbより引用

「ウィーアーリトルゾンビーズ」感想 ~絶望?ダッサ。人生の舞台はここにしかないんだから、クリアしながら生きていくだけ。【おすすめ度:★★★】

久しぶりの邦画鑑賞。

電通のCMプランナーで、短編映画「そうして私たちはプールに金魚を、」でサンダンス映画祭ショートフィルム部門で日本人初のグランプリを受賞した経験を持つ長久充監督の長編映画デビュー作。

 

★ウィーアーリトルゾンビーズ

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監督・脚本:長久充

キャスト:二宮慶多、水野哲志、奥村門土、中島セナ

 

◆予告編◆

 

◆あらすじ◆

事故や事件で両親を失った4人の13歳、ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコ。

ひょんなことからバンドを組むことになった4人は、人生という名の冒険と音楽を通して心を取り戻していく。

 

◆感想(少しだけネタバレあり)◆

子供たちが世界と出会い、自分を受け入れていくまでの映画ってこれまでにも様々な傑作があったと思います。

私が大好きなのはこの3作品。

テラビシアにかける橋<プレミアム・エディション(2枚組)> [DVD]

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リトル・ランボーズ [DVD]

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怪物はささやく [DVD]

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この3本に共通しているのは、両親や近しい人の死、いじめなどの現実世界の苦悩から「逃げ込む場所」を持っていた子供たちが、少しづつその世界と現実とを繋げることを受け止め、その方法を見出し、一歩を踏み出すというお話である点。

その時、「逃げ込む場所」は空想の世界であったり、映画の世界であったりしますが、そこは映像的ギミックを凝らして表現されることで確固たる「別の世界」として存在し、だからこそその世界と現実とを繋げていく過程がドラマチックな成長物語として描かれるのです。

 

だけど、「ウィーアーリトルゾンビーズ」は違う。

ゲーム好きの主人公ヒカリは、両親を事故で失ってもゲームの世界に逃げる事はなく、そしてその世界と現実とを繋げることで成長するわけでもなく、現実の世界そのものをRPGゲームの世界として脚色し、攻略しながら淡々と生きている。

 

この「世界との向き合い方」の違いはどこから来るのでしょう。

もちろん、監督の作家性や原体験が大きいとは思います。

だけど、そもそも原体験として現実をこう捉えていた長久監督と、前述した3つの物語の創作者である海外の作家・監督との間には、もしかしたら国民性や時代性の違いもあるのかもしれません。

海外作品では「空想の友達」という存在が割と一般常識的なレベルで物語の中に登場するし、ある意味「現実の駆け込み先」としての「ファンタジー世界」をベースとした物語が市民権を得ている背景には、「現実」と同じくらい「空想世界」とそこに生きるキャラクターたちの存在に、共通認識としてのリアリティと存在理由があるのではないかと思います。

個人的には「宗教」と「神話」の存在の違いが大きいのでは?と思ったのだけど、このへんはちゃんと勉強してみたいな。

 

何はともあれ「ウィーアーリトルゾンビーズ」の主人公ヒカリは、ゲームの世界に逃げるのではなく、現実世界をゲーム世界的に脚色して攻略しながら突き進んでいきます。

 

貧しい人には、人に配る愛さえない。(ちょっと言い回し違うかも)

絶望?ダッセ。

エモいって、古っ。

デフォルトで孤独。

もうすぐエンドロールなのに何も思わないね。

 

そんなキャッチ―で刺さりまくる台詞の数々。

デフォルトで孤独なら、誰かと向き合うからこそ生まれる「感情」とかいうやつなんていらないじゃん。意味ないじゃん。

そうして13歳まで生きてきた無表情・無感情の4人は、両親の死という出来事が大ボスとの対戦となるはずもなく、曲が売れて大ブレイクしたってそれがエンディングになるはずもなく、ただひたすらに人生をコンティニューしていく。

凄く今っぽいというか、リーマンショック後の日本で「素晴らしい人生を夢見る」ということの無意味さを知ってしまった子供たちだからこそ、諦めでも達観でもなく事実としての最適解として「自分の人生の舞台はここにしかないのだから、ここで起こる事をクリアしながら生きていくか」とする生き方が、凄く今の日本の若者的で現実的な観方だなあと思います。

彼らが「感情」に出会うまでの話でありながら、「ヒカリ ハ カンジョウ ヲ テニイレタ」とかは出さない。

結論に着地しない、成長物語としてドラマチックに描かない、死をエンタメ化しない、その「エモいって、古っ。」を地で行くような物語と表現の先に、それでもエモくてたまらない彼らの人生が見えてくるのが非常に面白い作品でした。

 

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長久監督のCM出身監督らしいキャッチ―でギミックたっぷりな演出は、好みの分かれる所かもしれません。

個人的には、やりたいことはわかりつつもちょっとギミックによりすぎたかなあと感じる所はなきにしもあらず。

ただ、前述したように台詞のセンスが炸裂しまくっていて、脚本も手掛ける映像作家よりの監督として、なかなかに面白くて素敵な存在が登場したのは単純に嬉しいし、日本映画界で新人監督のオリジナル作品がこういった形で公開されるのは大歓迎。

「湯を沸かすほどの熱い愛」で長編デビュー作×オリジナル脚本ながら物凄い傑作を放った中野量太監督と同様に、今後も応援して行きたい監督になりました。

 

そして4人の子役がとても良かった!

主演のヒカリを演じる二宮慶太くん、やっぱり一人だけ飛びぬけて演技が上手くて、短調で一本調子の台詞まわしながら、絶望でも達観でもないヒカリの人生観をあの無表情な中から感じさせていてやはり凄い子役だった。

「そして父になる」の福山雅治の子供役のあの子です。

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特筆すべきはイクコ役の中島セナちゃん。

無表情、棒読み台詞、座りがちな目つき、ぶっきらぼうな物言い、醸し出すサブカル感。

なんでしょう、新時代のクイーンが出て来ちゃった感がありました。

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彼ら含む4人の掛け合いのテンポ感の良さも、本作の魅力の一つ。

(そこにするっと入ってこれる池松壮亮の凄さも合わせて伝えておきたい)

 

あと、忘れてはいけない楽曲の良さ!

中盤で登場する「♪ウィ~ア~、ウィ~ア~、リトルゾンビーズ」というサビのこの曲の耳への残り方。

 

「ない」ものを連ねるこの楽曲が、それでも絶望に満ちていないのが素敵。

絶望?ダッセ。

 

※画像は全て映画.comより引用

「スノー・ロワイヤル」感想 ~リーアム・ニーソン主演、映画版「笑ってはいけない〇〇」【おすすめ度:★★★】

平成のブチキレおじさんことリーアム・ニーソンの主演最新作「スノー・ロワイヤル」。意外にもアクション要素は少なめで、まさかのスローで不謹慎なボケ倒しブラックコメディでした!

 

★スノー・ロワイヤル

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監督:ハンス・ペテル・モランド

キャスト:リーアム・ニーソン、ローラ・ダーン、エミー・ロッサム、トム・ベイトマン

 

◆予告編◆

 

◆あらすじ◆

リゾート地で除雪作業に努め、模範市民として町から表彰まで受けるような善良な男ネルソン・コックスマン。しかしある日、一人息子のカイルが麻薬中毒で突然この世を去る。麻薬には手を出していない息子の死を不審に思い調査を始めるネルソン。死の真相を突き詰めるうち、悪名高いギャング組織に1人切り込んでいくことに…!?

 

◆感想(途中までネタバレありません)◆

オリジナルは、同じくハンス・ペテル・モランドが監督をつとめ、ステラン・スカルスガルドが主演を務めた「ファイティング・ダディ 怒りの除雪車」

※凄い邦題…笑。

 

私は未見なのですが、監督も同じで、主演もリーアムにイメージの近いステラン・スカルスガルドが主演ということで、本作でどこをどうアレンジし直しているのかはちょっと気になるところです。

 

まず、昨今のイメージである「リーアム主演作=超絶リベンジアクション」というような作品ではありません。ここは予告編でもコメディ感を出しているところではありますが、それ以上にコメディ、しかもブラックコメディ寄りなので期待値ギャップがある方もいるかもしれません。

でも、リーアム=アクションのイメージが根底にある方が彼が演じるネルソンの役柄とのギャップに笑えるので、これまでの作品も履修済みという方は、それはそれで良いでしょう。ちょっと殴り合いしただけで手が痛たたた…になってしまうリーアムに「そんなわけないでしょ」と一人心の中でツッコミを入れる楽しみがあります。

今回の作品、どちらかというと「クエンティン・タランティーノ×ウェス・アンダーソン」という掛け算のチャレンジな気がします。

タランティーノ監督の人の死の滑稽さを描く描写とそこまでに至るどうでもよさそうでそうでもない物語のテンポ感、ウェス・アンダーソン監督の様式美とシュールなユーモアの掛け算で生まれる箱庭感。

キャッチコピーの通り、勘違いと思い込みで事態が勝手に悪化していくという「まったく噛み合わない復讐劇」は、ともすれば悪趣味になりそうなところをリーアムが真ん中に立つだけでなぜかキリっと引き締まり、それでいていつもの殺人マシーンキャラとの落差が絶妙に気の抜けた感じを醸し出していて、なんとも独特の味わい。

これとこれを掛けた感じ!

場面転換の表現に遊び心が溢れていて、それがエンドロールまで貫かれるのがとても楽しいです(これは後ほどご紹介)。

 

※ここからネタバレあり※

 

 

そんな作品のテイストが、一番最初に感じられたのは息子の遺体との面会シーン。「遺体は必ず頭部を手前にしていれること!」という、本当にどうでもいい張り紙のクローズアップ(長め)

息子の遺体が一番下の段に収容されていたため、キコキコと足でレバーか何かを踏んで目線の高さまで台をあげていくショット(異様に長め)。そして、ゆっくりと下から登場する息子の鼻の先(と、キコキコ鳴り続けるレバーの音)。カメラの写す範囲に息子が入るのを無言で待つしかないリーアムとローラ・ダーン(と、キコキコ鳴り続けるレバーの音)。

「あー、今笑ったら駄目なシーンなんだろうけどな、、、いやいや無理でしょ笑。」みたいな、観客を試すようなシーンが冒頭から登場します。少し「笑ってはいけない〇〇」みを感じます。不謹慎!

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何を言っているか分からないかもしれませんが、完全に「笑ってはいけない」でした

そんな冒頭で本作のテイストを見せた後は、ひたすらのんびり且つテンポよくリーアムのギャング狩りを眺める2時間へ。

クラブへ乗り込み、息子カイルの死の直接的な原因となったギャング、通称“スピード”をあっさり殴っておさらば。金網で巻いて凍てつく川へ投げ捨てる(一度目)。“スピード”から聞き出した名前を辿り、行きついたウェディングドレスショップのオーナー、通称“リンボ”を店内であっさり銃殺、金網で巻いて凍てつく川へ投げ捨てる(二度目)。

この「金網で巻いて川に捨てる」シーンが何度も何度も繰り返されるのですが、これがまたお決まりのシーンとして定着してくると、妙な達成感と不謹慎な笑いがこみあげてきます。しかもこれ、「金網で巻くと魚が肉を食べるため遺体が残らない」という小説で読んだ知識を実践してみただけという笑。

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さらにご丁寧に、退場してしまったキャラに対しては、その度に名前と通称、そして十字架マークが画面いっぱいに捧げられます。

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どことなくタラ監督やウェス監督の「第1章」みたいな章立てのカードを意識しているのかなと思っていましたが、後半に行くにつれてもはや殺しのシーンさえ写さずにこのご愁傷様カードが切られる出オチキャラも登場笑。

そして、ラストの打ち合いの後には、一人づつ出すのも面倒になったのか、画面いっぱいに12人分のご愁傷様カードが、綺麗に整理整頓されて掲げられるという有様笑。

最後エンドロールのキャストクレジットでは、画面いっぱいに主要キャストの名前が並ぶ中、「In Order of Disappearance」という通常と反対の手法で退場順にキャストの名前が雪になって舞い散っていくという非常に粋な方法で締めくくられます。こういう様式美を2時間の中で観客に飲み込ませて、その応用で作品の魅力を作り出せるのはなかなか素敵ですよね。

 

そんな作品のテイストを理解してか、主要キャストもキャラ立ちさせることに全振りしたかのような演技を見せていてとても楽しい。

何も悪いことをしていない兄が殺されても、最後空からパラシュートで舞い降りてきた先住民の1人が除雪車でばらばらになっても(このオチの凄さ!)、ちょっと困り眉になるだけでその場が過ぎていくシュールさを醸し出せるリーアムの存在感。

リーアムの持つ真面目そうなイメージが、今回は「毎日せっせとギャング殺しに勤しむ」という方向に働いていて、味は活かしようだなあと感じました。

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そして最も世界観にあっていたのが、ギャングのボス・ヴァイキングを演じるトム・ベイトマン。元妻には親権問題で上手に立たれ、部下には舐めた口をきかれ(禁止しているシリアルを部下たちが息子にあげていることも気づかない!)、拉致された息子も拉致生活を楽しんでいるという何とも情けないキャラを、アホなほど真っすぐ演じていて愛らしい。基本的に本作で事態を悪化させているのは彼の勘違いと先入観と偏見でしたね。それに一つも気づかずに突き進んでいく姿がまた可笑しくて。

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息子役の子もよかったですね。あの母親に100%血を貰ったのであろう賢さと、除雪車にわくわくしちゃう少年心。「お休み前にお話して欲しい…」と言って、良い物語本がなくてリーアムが除雪車ガイドブックの解説文を読むのを楽しそうに聞きいる姿が可笑しくて可愛くて。

ヴァイキングをおびき出すために誘拐したとはいえ、彼と絆をはぐくんでいくリーアムとのシーンはシュールでブラックな本作の中でもほっこりしていて好きでした。

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女一人でこの作品を観てクスクス笑っているのはそれはそれでヤバイかなとは思いつつも、劇場もくすくすムードだったので遠慮せずに楽しく鑑賞できました。好きな人にははまるテイストだと思います。

 

「スノー・ロワイヤル」は全国公開中!

 

 

※画像は全てimdbより引用

 

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」感想 ~世界で一番スケールの大きな「好きを仕事に」【おすすめ度:★★★】

「名探偵ピカチュウ」に続き、「好きを仕事に」をとんでもないスケールで実行してしまうハリウッドの次なる一作。

 

★ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

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監督:マイケル・ドハティ

キャスト:カイル・チャンドラー、ヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、チャールズ・ダンス、渡辺謙、チャン・ツィ― 

 

◆予告編◆

 

◆あらすじ◆

2014年の襲撃から5年、怪獣を極秘に調査していた秘密組織モナークは、世間からの追及・非難を受けていた。

そんな中、中国・雲南省の基地で怪獣たちとの交信装置“オルカ”を完成させたエマとその娘のマディソンらは、モスラの幼虫との交信に成功。

しかしそこにアラン・ジョナ率いる環境テロリスト集団が襲撃し、エマ、マディソンを拉致、オルカも奪われてしまう。

モナークの芹沢博士らは、元社員でエマの元夫、そしてオルカの試作機開発者であったマークのもとを訪ね、協力を依頼する。

嫌がるマークだったが、アランらの次なる急襲を受け、モナークに舞い戻ることに…。

 

◆感想(途中までネタバレありません)◆

※ゴジラや怪獣映画自体については詳しくないのであしからず。

 

昨今のハリウッド映画の「好きを仕事に」「好きこそものの上手なれ」な風潮。

それは一つに原作やオリジナルのある作品のリメイク・リイマジネーションの増加と、もう一つ、VFXの凄さで押し切れる時代を過ぎて「何を付与できるか」という点が差別化する上での重要な要素となったことで、作品への愛情・執念・思い入れの濃度が大切になってきたことがあるのかもしれません。

 

デジタル化によって映像制作の裾野が広がったことで、日本でも映画の製作本数はどんどん増えています。

さらにはNETFLIXなど配信で観る映画も増え、映画館で映画を観るべき理由がどんどん薄れてしまっている中、よりスポーツ中継や音楽フェスイベントなどのような「同じ時、同じ場所で熱量を共有する」ことの重要度があがり、その中心に位置するコンテンツとして「クオリティが高い」以上に「熱量が高い」ことが求められているのではないでしょうか。

 

あとはSNSのマーケティングプロモーションが大事な時代だからかな。

公式が発信を繰り返すのではなく、公式のコンテンツの中に宿る熱量やフックにファンが反応してその反応が波及していくことがヒットに繋がる時代。

「バーフバリ」とか最たるものですよね。

 

ここら辺は話すと長いので割愛しますが、最近だと「キングコング 髑髏島の巨神」のジョーダン・ヴォート・ロバーツ監督「名探偵ピカチュウ」のロブ・レターマン監督なんかが、好きで好きでしょうがない!という熱量が実績の有無を超えて評価され、起用された実例。

 

これは巨匠の作品ですが、「アリータ バトル・エンジェル」もジェームズ・キャメロン監督の20年越しの溢れんばかりの愛情がこれでもかと炸裂していましたね。

 

不思議なことに、作品の中に宿る制作者の「好き」という熱量は何よりも観客に伝わるんですよね。

そして鑑賞者側がうけとる「この作品を作っているのは、俺たちの仲間だ」「きっと幼い頃、自分と同じような夢想をしていたんだろうな」というような感覚は、作品を鑑賞する時間を「友達の夢を応援する時間」のような感覚に近づけてくれるのかもしれません。

 

本作のマイケル・ドハティ監督も、脚本家として「X-MEN アポカリプス」に参加している実績などはありますが、監督作品としての実績は微々たるもので、本当によく起用したなあと最初は思っていました。

ですが、インタビューなどを読むとそのゴジラ愛の深さに不思議と安心感が。

 

今回特に感じた「ゴジラ=神である」というメッセージとコンセプトは、監督が幼少期にテレビで「ゴジラ」を見た時から持っている原体験的な感覚が明確に反映されているんですよね。

アメリカでのゴジラ第1作公開時のタイトルがそもそも「Godzilla:King of the Monsters」であり、ゴジラは「God-zilla」であり、そこは予告編でもしっかりと拾われていましたね。

その「ゴジラ=神である」というコンセプトは、全編が浴びる宗教画のように、完璧に作りこまれた構図や色彩美として美しく荘厳に表現されています。

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※ゴジラはもちろん、美しく流麗なモスラ、悪魔的な飛行法をみせるラドン、西洋のドラゴンではなく東洋の龍をモチーフとしたキングギドラなど、登場する怪獣たちのデザインと造形がとにかく素晴らしく、「地球を人間から怪獣に返そう」というある人の言い分に恐ろしく説得力があった。

 

物語上その敬意がもっとも明確なのは、渡辺謙演じる芹沢博士の行動と言動でしょうか。

 

※ここからちょっとネタバレ有り※

 

ゴジラを安易に殺そうとする者たちに向ける目。

ゴジラとの共存を望む想い。

ゴジラを復活させるべく自らの命を懸けようとする姿。

 

深い海の底の古代都市に独り残り、眠るゴジラへと核を浴びせて呼び覚ます場面。

あのシーンは、ギャレス・エドワーズ監督の前作のみならず、これまでの様々なゴジラの映画化に対してきっと完全にはアグリーでないであろうマイケル・ドハティ監督自らの想いと夢が詰まった場面であり、核という人類の罪を背負いながら「神が復活する」様を描かんとする場面として、涙を禁じ得ない…。

それを、猪四郎という名前を関されたキャラクターが達成する、それを日本人俳優である渡辺謙に託すというあたり、監督のリスペクトが詰まっています。

 

 

そんなわけで、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は監督のゴジラへの畏敬と愛情により、怪獣映画でありながら宗教映画となっていて、素晴らしいカットの数々によりなんだか絵画を眺めているような感覚になっているためだいぶ隠されていますが、人間側のストーリーと編集は正直かなり粗い(笑。

 

ですが、拉致されたと思っていたら、元から怪獣への殉教精神を貫いていたエマ博士の、浅はかながら説得力のある「地球を人間から怪獣に返そう」という考え、そしてそれを演じるのがヴェラ・ファーミガなのは最高。

彼女の、業の深さを感じさせる演技ってなかなか他にはいない魅力です。

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娘役ミリー・ボビー・ブラウンもよかった。

そして、このブログ的には外せないチャールズ・ダンス

「ゲーム・オブ・スローンズ」のタイウィン・ラニスターですね。

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70代にしてあのスタイリッシュさ、そして溢れ出る貫禄と貴品。

タイウィンよろしくな傲慢さ、そして怪獣たちにも負けないほどの顔力。

ラストの展開的に、続編にも出演確定な感じでこれまた楽しみです。

 

怪獣映画に詳しくない私がその愛情と熱量に歓喜するって不思議なことかもしれませんが、映画はあらゆるクリエイティビティの集合体だと思うと、その根底にある愛情や熱量までがクリエイティビティを通して感じ取れることに刺激を受けているのかもしれません。

 

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は全国公開中。

 

※画像はすべてimdbより引用

「ゲーム・オブ・スローンズ」(海外ドラマ)【シーズン8<最終章>ep6- The Iron Throne -】感想 ~学び、変化しながら生きる事についての物語

ついに終わってしまいましたね…、「ゲーム・オブ・スローンズ」完結。

なかなか纏まらなかった想いが、ようやく落ち着きついてきました。

 

GOTファイナルナイト、TOHOシネマズ六本木スクリーン7という日本最大級サイズのスクリーンで観るゲースロは、この小さなパソコンの画面で見るのとは比べ物にならない迫力がありました!

そしてきっと、日本(と北朝鮮)だけ流行らないと言われ、友人知人に布教してはグロい・エロい・長い・キャラ多い、などと言われながらも、その面白さを信じ続けてきた生粋のファンであろう数百人の方々と一緒に観るという感慨深い体験。

デナーリスとドンダリオン、サーセイとセプタユネラのコスプレの方なんかもいらっしゃって、スクリーンに向かう通路にはかっこいいパネル展示があったりして、何より夜の王との2ショットサービスが大繁盛していたりして(笑)、最高に素敵な空間でした。

まずはスターチャンネルさんに大感謝。

GOTドキュメンタリー配信までとりあえず契約継続します!

 

※ここからネタバレあります※

 

待ちに待った本編。

実は、初見の感想としては「最終回としてはちょっと弱いかも?」でした。

そしてそんな第6話はそれこそ世界中で賛否両論渦巻く大論争になっています。

ただ個人的には、数日経ってじわじわと「これで良かったんだ」と思う部分が大きくなってきました。

 

◆ティリオン

知略家として、愛するシェイと南の島で生きるという可能性を退けてまで「俺は悪い奴らを扱うのが得意だ。彼らを出し抜いて生きるのが俺なんだ。それが何より好きなんだ」と自負していたティリオンが、「自らを過大評価していた。何が正義かわかっていなかった。」と認めたうえで、改めて“王の手”としての人生を歩み始める姿には、ティリオンに託された制作陣からの温かいメッセージを感じました。

前回書いたようにデナーリスの素質としてそもそも存在していた暴力性に、周囲が生んだ孤独、サーセイが生みつけた憎悪、ジョンの裏切りなど様々な要因が積み重なってあの虐殺が起きた中で、ティリオンにも「彼女を信じようとしてしまった」「彼女を導けると思っていた」という罪の一旦があることを彼自身が認めています。

人々が剣の訓練をする間、書を読み歴史と知識を学ぶことで自身の強みを磨き続けてきたティリオンは、王都での魅力や活躍ぶりに比べ、S5以降デナーリスの元に至ってから精彩を欠いていたように感じていました。

その時彼は、炎の中を生き延びドラゴンに騎乗する女王という“奇跡”を目撃し、そんな彼女に女王の手として仕えることで“自らも奇跡の物語の一部になる”ことを達成してしまい、何よりも自分が得意とする「学び続けること」がおざなりになっていたのかもしれません。

「導ける」と思っていた相手が持っていた「私は世界を統べる運命にある」という物語。その強すぎる輝きが、彼の智慧をも飲み込んでしまっていたのかも。

そんなティリオンの払った大きすぎる代償は、彼が愛していたあの美しく堕落した王都の崩壊と民たちの虐殺、そして愛する兄姉の死。

瓦礫の中に寄り添うように横たわる2人の遺体、画力が強すぎて辛かった…。

だけど、自身の驕りに気づき、大きすぎる代償に傷つき、それでも王都への愛を持つティリオンがジョンの心を動かせるあのポジションにあの瞬間に居たことが、本作の終焉にとって必要なことだったのでしょう。

多くを失ったけれど、彼は書を読む以上にこの出来事から多くを学び、また学び続けてくれるのだと思う。

かつては小評議会に一番最後に入ってきてはすぐにワインを飲んでいたような彼が、一番に部屋に入り、椅子の向きを正し、緊張した面持ちで面々を待ち構える場面。

サムの書いた「氷と炎の歌」に名前が載らなかった彼は、そんなまだまだな自分と向き合いながら、この先もウェスタロスで頑張ってくれるはず。

あの素敵すぎる評議会の面々と共に。

(ブロン、町の食事処に居合わせた傭兵から財務大臣へ、ちゃっかり一番出世してる!!)

 

余談ですが、、、

ティリオンがデナーリスについて色々と語る場面、「彼女が現れれば悪人は死んだ。みなが彼女を応援した。彼女は力を増すほど自分が正義だと確信した。」というような一連の語りセリフ、正直最初は語らせすぎでは?と思っていました。

視聴者が個々に感じ取るであろう事を、直接的にキャラクターに語らせることは、脚本術としてはあまり良いとは思っていないので。

だけど、現に世界で巻き起こった「最終章作り直せ署名サイト」の存在や、デナーリスが闇堕ちしたことへの「急に悪役にしないで!」といった意見をみると、制作陣も彼女の輝かしい物語の強度を正しく見積もれているか不安があったのかもしれません

視聴者にもティリオン同様「彼女は偉大。きっと良い世界を作る」とあの瞬間まで思わせてしまう魅力、ふとした瞬間の台詞や個人の善悪観で全てをドラカリスで解決するという彼女の残虐性への気づき、どちらも同様に制作陣が最後の闇堕ちへ向けて積み重ねてきたものではありますが、前者の威力が想定以上に強すぎた。

個人的には納得いく形で散りばめてきていたと思っている派ですが、そこに制作陣が自信がなかったからこそのあの台詞なのかも。

(そしてあの世間の反応をみるに、入れておいて正解だったのかも)

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◆ジョンとデナーリス

最終話で冒頭ジェイミーとサーセイの遺体が出てきた時の画の衝撃度が高すぎて、本シリーズの中での「運命のカップル」と言われたら完全にあちらに軍配があがると思っている人間からすると、ふたりの「カップル感」はもう一歩リアリティに欠けていたなと思っています。

ジェイミーとサーセイで言えば、ニコライはもちろんやっぱりレナ・ヘディがシリーズ通して演技力で秀でており、サーセイの複雑怪奇な内面と女王となる過程の描写、ジェイミーとの破滅的な関係の説得力にただならぬものがありました。

デナーリスで言えば、ジェイソン・モモア演じるカール・ドロゴとのカップルが、キャラクター同士の共鳴度にしても演者同士の相性にしても最高だった上に、ダーリオ・ナハリスやジョラー・モーモントという「彼女を何よりも愛してくれた人たち」を(そしてそこに演技以上の情をみせるイアン・グレンを)見てきているため、ジョンが、キット・ハリントンが「愛しています、マイクイーン」という度にどこかむなしさを感じてしまっていたのは事実。

イグリットとの時は感じなかったんですけどね。

あれはもしかしたら「多くの男に愛され、奇跡の存在としての自身を信じすぎたデナーリスにもたらされた代償」という解釈の描写なのかも…?

事実、血縁関係が判明したところで距離とられちゃってるしな…。

いやでも、ジョンからアプローチしていたわけだし、「愛は義務を殺す」だし、キット・ハリントンの演技力がもう少し高ければ…ごにょごにょ。

でも彼女を刺したことを「正しかったのか?」と悩むジョンの姿をみるに、 そこに至っても主体性なくティリオンの言葉で動かされた可能性が高いとすると、物語上ドロゴやダーリオ、ジョラーのような揺るぎない愛を持つ相手が傍にいては成り立たなかったのかもしれませんね。

 

さて、それでも最終章最後の2話のデナーリス/エミリア・クラークの堕ちた女王としての演技はとても良かった。

彼女本人はもちろん、彼女を演出するスタッフの気概もすごく感じました。

まるでナチス国旗のようなデザインのターガリエン旗がはためく暗黒の広場。

オレナの助言通り「Be a Dragon」となり、翼をはためかせて登場するデナーリス。

長く伸び複雑に編み込まれたプラチナブロンドは、ドスラクの基準でも女王となった証であり、ダークグレーのドレスに映える映える。

高揚した表情、ドスの利いたヴァリリア語での演説。

誰もが興奮したであろう、S3での親方を欺きアンサリードを獲得したシーン。

彼女の物語が大きく踏み出した、視聴者が彼女の「解放」に胸躍ったあのシーンと呼応するかのように描かれる、望まざる「解放」の帰結点。

 

「まだ存在しない世界をみるのは難しい。だけど私は善を見極められる。他のものには選択肢はない。」

これまたS2E10での黒魔術師の館のシーンと呼応するように描かれる玉座の間で、そういった彼女は玉座に座る事なく愛する人に刺されて亡くなった。

彼女は善を見極められなかった。

いや、自身の中の善だけを信じ、善とは何かを広く学ぶことをしようとしなかった。

彼女の存在、彼女が辿った人生、そして彼女とサンサとの比較こそが、ドラマとしての「ゲーム・オブ・スローンズ」が観客に突きつけたメッセージだと私は思っています。

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◆サンサとスターク家の子供たち

北の独立を宣言し、Queen in the Northとなったサンサ!!!

これほど嬉しい展開はありません。

しかも、既存の玉座を奪取するのではなく、民と共に自身の世界を改めて構築していくための新しい「王座」の創出。

美しい衣装をまとい、かつての誰かを真似した華美なヘアスタイルではなく、ただまっすぐに流れる美しい赤い髪に王冠が乗せられた瞬間、なんだか涙が止まりませんでした。

荘厳ながら慎ましい、大狼のデザインがほどこされた王座。

ソフィー・ターナー本人はもちろん、彼女を演出する衣装、ヘアメイク、照明、音楽…すべてのスタッフさんの気概が詰まった戴冠式シーン。

新時代を切り開く女王として、対峙してきたあらゆる人々から学び、現実をよく観察し、ただのお姫様に憧れる少女から人々を導き守る当主として生きることを見出したサンサこそ、「ゲーム・オブ・スローンズ」の「どう生きるか?」というメッセージが凝縮されたキャラクターなのではないでしょうか。

 

一つだけ気になるのは、「ブランはどこまで知っていたのか?」。

かつて彼がみたビジョンの中に、既に「上空を舞うドラゴンの影がさす王都」のビジュアルがありました。

つまり、彼はデナーリスの襲撃も、ジョンによる刺殺も、自分の即位もビジョンとして観ていた可能性が高い。

とすると、自身が王位につくルートもすべて知っていた上で、意図をもって出生の秘密を伝えたのではないか?

どこの段階から彼は王位につくことを見越して動いていたのか、また振り返る面白さがありそう。

彼がティリオンに推薦され「だから僕はこの場にいる」と受け入れたとき、ティリオンは「この世で物語以上に強力なものはない」という理由でブランを推したけれど、むしろそれは反語的なもので「だからこそ、事実を見通せる“番人”としての王が必用だ」という意味だったのだと思っています。

「物語」だけでいえば、ティリオンにも、サンサにも、ジョンにも、そして何よりデナーリスにこそ強く感じられる要素。

そういったものに踊らされてきた世界だからこそブランを選択したのだと思うけれど、ではブランはどこまで“番人”としての存在に留まり、自身の主張を排除してきたか、この先“番人”として統治できるのか、そこは色々と考える余地があるかもしれません。

(これを、現代のGAFAなどのプラットフォーマーが個人情報を持ち強大化する世界を暗喩しているのでは?と言っている方がいて、それはちょっと興味深かった)

 

アリアについては・・・まだ納得し切れてないのでお預け。

どうしてもこれまでの修行描写の分量に対して、サンダーの「命を大切にね」で収まるはずがない、e5の思わせぶりな白馬といい、デナーリスを睨む目つきといい、回収不足と思ってしまう・・・。

 

 

◆王の盾総師・ブライエニー

最終章でもっとも脚本に愛されたキャラクターはブライエニーだと思う。

長年のささやかな愛の結実と離別、騎士としての叙任、そして王の盾への就任。

王の盾として引き継がれる、ジェイミーとブライエニーの騎士道。

ウェスタロスの人々にとっても視聴者にとっても、ジェイミーには「サーセイの相手」という側面が強すぎたけれど、そんな彼の果たした事、果たせなかった事をブライエニーほどちゃんと見ていた人はいないのだと思う。

「兄弟の書」の彼のページだけが真っ白だと揶揄されたジェイミーの尊厳を、ゆっくりと言葉を選びながら加筆し埋めていくブライエニーの敬意、ジェイミーの騎士としての尊厳をせめて書の中で守ろうとするブライエニーの優しさに涙が止まりませんでした。

彼は狂王を背中から刺して殺したかもしれないけれど、最後には「彼の女王を守って死亡した」。サーセイではなく「His Queen」。

 

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纏まったようでちっとも纏まらなかったけど、「サーセイからすべてを奪う美しき女王」の候補として有力視されていたデナーリスとサンサの顛末の対比に本シリーズのメッセージと醍醐味が詰まっていたように思います。

輝かしい物語に彩られながら、その根本は自身の中の善だけを信じて変われなかったデナーリスと、とにかく目まぐるしい状況の変化と周りの大人たちから学び、スターク的な善にとらわれずに変化し続けたサンサ。

2人の対比、そして生き残り次世代を担う面々から感じ取れるのは「学び、変化しながら生きる事」についての物語だったのではないかということ。

思っていた以上に、美しくまとまったなと思います。

(いや、いろいろと積み残している伏線とかはあるんですけどね…)

 

 

とりあえずキャストとスタッフの皆さんお疲れ様でした。

そして我々は、きたるスピンオフ(ナオミ・ワッツ主演!ターガリエン家か?)の配信を楽しみに待ち続けましょう。

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↓↓シーズン8<最終章>各話感想↓ ↓

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※画像は全てimdbより引用

 

「ザ・レイン」シーズン2(ネットフリックスオリジナル/ドラマ)感想 ~ディストピア世界はいつだって若者に容赦ない【オススメ度:★★★】

NETFLIX初のデンマーク製オリジナルドラマシリーズで、シーズン1配信開始から1か月足らずでシーズン更新が決定した「ザ・レイン」。そのシーズン2が2019/5/17より配信開始されました。今回も面白い!

 

★ザ・レイン シーズン2

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出演:アルバ・オーガスト、ルーカス・リンガー・トゥネセン 他

 

◆シーズン1のあらすじ◆

濡れたら即死亡という殺人ウイルスを含んだ雨が突如降り始めたデンマーク。混乱の中、シモーンとラスムスの兄弟は、父が務めるアポロン社のシェルターに逃げ込み、そこで6年もの間2人きりで生き延びる。彼らをシェルターに置いて消えた父を探しに、6年後のある日2人はシェルターを出ようとするが、そこでマーティン、ベアトリスら若者グループと遭遇。当初は対立するものの、ともに行動をすることに。次第に友情、そして愛情をはぐくむ彼らだったが、ラスムスに隠された秘密が徐々に判明し、事態は思わぬ方向へ…。

 

◆シーズン2予告編◆

 

◆感想(途中までネタバレありません)◆

シーズン1は「ウォーキング・デッド」×「メイズランナー」といった感じで、王道中の王道ではありながら、デンマーク製の湿気感・寂寥感が新鮮な魅力となったディストピアサバイバルものでした。

※シーズン1の感想。

※そもそも「メイズランナー」って何?という方はこちらをどうぞ。

 

無味乾燥した世界観が定石のジャンルながら、おしゃれな登山ルックや時折流れるクラブミュージックやポップス(デンマークのヒット曲?)もキャッチ―で素敵だったりして、どこかスタイリッシュな雰囲気。

そして何より、シモーンとラスムスという姉弟の絆とそれぞれのキャラクター、そして仲間たちの背景がテンポ良くかつ印象的に刻まれていて、彼らが皆「根っこはいいやつ」だからこそ先を見届けたくなる作品。

弟想いで、時に想いが先行しすぎてラスムスを縛り付けてしまう姉・シモーン。幼い頃からシェルターで姉と2人きりで生きてきたことで、ワガママで子供っぽいまま成長してしまい、恋にも盲目的な弟・ラスムス。状況を瞬時に察し、生きるために全てを使うしたたかさが魅力のベアトリス。過去の辛い経験から、雨に濡れた人間に非情さを見せる元兵士のマーティン。寂しがり屋の不良少年パトリック。トラウマを抱えた少年ジャン。優しく無垢すぎる心を持ったために、貶められた過去を持つリア。

彼らを中心に進む物語はやがて、この雨の秘密と、シモーンとラスムスの父フレデリックが務めるアポロン社との関係、そしてラスムスに秘められた秘密へと辿りつきます。

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※ここからネタバレあり※

 

シーズン1のラストで「既に雨に殺傷力はなくなっていた(!!)」ことが明かされ、そしてフレデリックがかつて幼いラスムスの体を使って何らかの実験をしていた事が判明。しかしラスムスの免疫力が災いし、その実験ウイルスが突然変異してしまい、彼は体内にウイルスを留めながら人に感染させ殺す事が出来るようになってしまいます。

雨に濡れて死んだものと思われたベアトリスも、恐らくそんな自分の能力を知らないラスムスからセックスによってウイルスをうつされてしまったからなのでしょう。(本当に可愛くて素敵なキャラだったので、死んだのが惜しいよベアトリス)

外部に放出されるたびに凶暴性を増していくそのウイルスは、一度はシモーンらの懸命の努力で完治したかのように見えましたが、遂には彼の怒りと相まって歩く生物兵器としてラスムスを支配する事に…。

 

そう、「ウォーキング・デッド」×「メイズランナー」から、「X-MEN」×「メイズランナー」なテイストへと物語はスライドしてきました。

ラスムスの「望まず得てしまった能力」「制御の利かない殺傷力との対峙」は、「X-MEN」のミュータントたち、特にダーク・フェニックスやローグあたりの物語と近しい印象で、まさに今彼らの若い頃を若手キャストで映画化している最新シリーズ作品群との類似点がちらほら。

意志とは関係なく、内なるウイルスの暴走によって多くの人を殺めてしまうラスムス。シモーンは愛ゆえにそれを隠し、ラスムスにも仲間にも嘘をつく。しかしその嘘が引き金となり、事態は悪化の一途をたどっていく…。

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なにより、悪化を助長する一旦は彼らの「幼さ」にあるということ。

愛ゆえに、冷静な判断が出来ずただ自分の意のままにラスムスをコントロールしようとしてしまうシモーン。彼女の愛ゆえの嘘を受け止められなかったマーティン。唯一彼女を救うために身を差し出したリアの、その心を受け止めきれなかったジャン。

そして、シーズン1から描かれてきた通りわがままで子供っぽく、恋に真っすぐで盲目的なラスムスが、ベアトリスの生まれ変わりのような風貌を持つ、生まれつき病弱な体質で無菌室に監禁状態の少女・サラとの出会いによって、自分たちを抑圧する世界からの逃亡を試みる展開には「幼さ」のすべてが詰まっています。

 

この「幼さ」に、もちろんちょっとイライラはするんだけれども。でもやはり、S1で丁寧に一人ひとりの背景を描き、その「根っこはいいやつ、純粋なやつ」をちゃんと描いてあるからこそ、そしてほんのすこしづつだけれども成長しているからこそ、皆なんとか負のループを抜け出して欲しい~と思ってしまうんですよね。

ラスムスは特に、10歳ぐらいのときのキュートな姿も、ベアトリスに向けた真っすぐすぎる恋する少年の眼差しも、サラに向けた同類としての親近感が淡い恋心に変わる瞬間も観てしまっているので、あまりに幼い真っすぐすぎる行動にも「いやでも、彼にも少しぐらい自由で幸せな瞬間をあげたっていいじゃん…」みたいな気持ちになってしまうので制作陣の思うつぼです。

演じるルーカス・リンガー・トゥネセン君の、アントン・イェルチンとエル・ファニングとトーマス・ブロディ=サングスターを足してロバート・パティンソンを一粒まぶしたような風貌は、そんな想いを抱かせ不憫さを背負わせるにはぴったりのルックスで、よく見つけてきましたねほんと。

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そしてその幼さに、姉や周囲からの抑圧とサラを殺された怒りが加わる事で、ウイルスの持つ能力と彼の体が相互作用を起こし結びついてしまうラストの哀しさ。幼い恋に生きがいを見出していた彼の悲しい運命に対する怒りは、若者にこんな厳しい世間と人生を突きつけたらそりゃ世界を恨むよな~という納得感しかない。

この後、ヤングアダルト小説のような「残酷な世界と自分」という向き合い方の物語へと進んでいくのでしょうか。アポロン社の陰謀もちらついていましたが、きっと彼の体内で凶暴化したこのウイルスを生物兵器的に加工して大儲けしようっていう展開なんでしょうね。

そのあたり引き続き王道プロットではあるんですが、幼い彼らがどう乗り越えていくのかを見たくてたっぱりシーズン3も観てしまう気がします。サラの生き返り、不吉な予感しかしないけど…!

 

シーズン3はまだ決まっていませんが、更新するといいなあ。

シーズン3が最終章として、NETFLIXで2020/8/6より配信開始です!やった!

シーズン1、2はNETFLIXで独占配信中です。

 

↓NETFLIXのおすすめ作品はこちらにまとめています↓

 

※画像は全てimdbより引用

「ゲーム・オブ・スローンズ」(海外ドラマ)最終回に向けて ~巧妙に霞まされてきた女王の狂気

光栄なことに、GOTファイナルナイトに当選しました!

最終回をスクリーンで観れるという貴重な機会、今からドキドキが止まりません。

 

さて「ゲーム・オブ・スローンズ」も遂に来週完結。

前回第5話で、世界中を奈落の底に落とすほどの衝撃の展開がありました。

 

※ここからネタバレあります※

 

デナーリスが降伏後の王都をドラゴンの炎で焼き尽くし、レッドキープを陥落させるというあまりに凄惨な地獄絵図に世界中が悲鳴をあげました。

私は彼女の危険性については「要所要所で描かれていた」と感じていて、唖然とはしながらもこうなるのも致し方ない、という納得感のある闇堕ちだと思っているのですが、SNSでの感想や各リアクション動画などを見るにつけ、そうでもないんだなあという印象。

そんな視聴者からの否定的意見さえ見越した展開を作り出す原作者・制作陣ですが、丁寧に積み上げられてきたデナーリスの闇堕ちまでについて、考えた事をまとめておきたいと思います。

 

◆圧倒的な物語の魅力が、狂気を巧妙に霞ませる

デナーリスが、事あるごとに「跪け」「さもなくば、焼き払え」と言って常にドラゴン(&兵力)という暴力によって物事を解決してきたのは自明のこと。

黒魔術師を、親方たちを、サムの父と弟であるターリー家の2人を、そして遂には臣下であったヴァリスをも。

しかし、その事実から読み取れるデナーリスの危険性や狂気は、何重にも積み重ねられた彼女のエピソードによって巧妙に霞まされ、その実態を多くの人が見過ごす、もしくは気づいても余りある魅力に抗えないという状況を作りだしてきました。

プラチナブロンドをなびかせる若く美しい白人の女性。

幼い頃に追いやられるようにして故郷を去り、兄に売り飛ばされながらも、政略結婚の相手と相思相愛の関係を築き這い上がってきた。

燃え盛る炎の中を一人生き延び、幻のドラゴンを蘇らせた。

ドラゴンに騎乗して自由に空を飛び回り、奴隷解放に成功した。

かつての裏切りを許しジョラーの忠心を受け入れ、奴隷であったミッサンディを解放して親友然となり、王都から逃げてきたティリオンを受け入れ女王の手に任命した。

これらはデナーリスというキャラクタ―が辿ってきた物語の持つ魅力であり、彼女を印象付けるエピソードとして本編の中でも大きな盛り上がりポイントとなり、彼女が王座へと近づいていく度にカタルシスを醸し出していました。 

そのカタルシスは、垣間見える彼女の狂気を霞ませるには十分すぎるほど。

制作陣もS6あたりまでは巧妙にそのステータスを維持してきていましたが、この結末に向けて撒いてきた種に水をやるかのようにS7で「(あろうことかシリーズ1視聴者に嫌われていなそうな)サムの父と弟であるランディル&ディコン・ターリーの処刑」というエピソードを入れてきました。

このあたり、とても上手いなあと思っています。

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◆デナーリスはジョラーの贈り物の書物を読んだのか?

個人的には、イアン・グレンがジョラーを演じたことこそが、彼が“命を捧げるほど愛した人”としてデナーリスにポジティブフィルターをかける事に成功した一番の要因だったように思います。

(ここからはジョラー好きとしての贔屓目をお許しください)

S7E3のウィンターフェルでの戦いで彼がデナーリスを守って死んだ時、そのフィルターは最大級に威力を発揮しました。

そもそも、ジョラーにとってデナーリスを守って死ぬなんてことは本望だったはず。

この「ゲーム・オブ・スローンズ」の中で、こうしてある意味幸せすぎる最期を遂げたキャラクターはジョラー以外にあまり思いつきません。

そんなジョラーの最期への、類を見ない制作陣からの優遇ぶり、今思えばこれもまたデナーリスに対するフィルターを際立たせるためだったのかもしれません。

「彼の死を無駄にしないで」という願いのような想いはしかし、翌週のE4で早々に「ジョラーの死がデナーリスの孤独と暴走を深める」という形で打ち砕かれましたが。

 

さて、それでもデナーリスはジョラーについて「彼が望むようには愛せなかった」と言いました。

結局、彼の想いは一方通行なんですが、「愛せなかった」のは別に構わないんです。

何よりも辛いなあと思ったのは、ジョラーが為政者としてのデナーリスを信じてかけてきた言葉やアドバイス、行動が彼女の根っこを変えられなかったこと。

ジョラーは初めて登場したデナーリスとドロゴとの結婚の儀の際、七王国の歴史について書かれた書物をデナーリスに贈っています。

しかしあれから今に至るまで、彼女があの書物に目を通した場面は一切描写されていません。

あの書物にどこまでのことが書かれていたかはわかりませんが、ウェスタロスの土地と民と歴史を理解しようという心はデナーリスには微塵もなかったのでしょう。

あの書物に彼女の父であり狂王と呼ばれたエイリスの事が記載されていたかはわかりませんが、もし彼女が一族がウェスタロスでどのような事をしでかしたのかを正しく把握していたら、まるで同じ道を辿るかのようなあの愚行に至っていたでしょうか。

ジョラーの贈った書物ではなく、イリリオが贈った3つのドラゴンの卵に執心していたあの時から、デナーリスの心の向きはある意味示されていたのかもしれません…。

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◆合わせ鏡のような悪役たち:ナイトキングとサーセイ

今となっては「一番の人気キャラがラスボスだった」という予想だにしない展開になってしまっているわけですが、ここに至るまで悪役とされていたのは「ナイトキング」と「サーセイ」です。

ゾンビ化したドラゴンと、死を恐れることなく増え続けるホワイトウォーカー&ワイトという兵力を従えて、超えようのないハードルであったはずの壁をものともせずに打ち砕いてウェスタロス大陸を南へと侵略してきたナイトキング(元ターガリエン家の人間)。

ドラゴンと、アンサリード、セカンドサンズ(今回は来てないけど)、ドスラクと続々と増していく兵力を従えて、絶対に超えてはこないと思われていたナローシ―を超えてウェスタロス大陸に上陸してきたデナーリス・ターガリエン。

同じように侵略者然としたデナーリスの行動は、ナイトキングのインパクトの元にこれもまた巧妙に霞まされていました。

そして、冷徹な父の元で抑圧されて育ち、双子の弟との間に出来た3人の子供を失いながら、悲しみ、諦め、達観の先に女王となったサーセイ。

エッソスへと追いやられ、そこで得た3匹のドラゴンという子供を徐々に失いながら、自身の女王としての正当性と運命を根拠に女王となったデナーリス。

これもまた、合わせ鏡のような存在。

こうして、デナーリスと同様に無敵さを感じさせていたナイトキング、デナーリスと同様に魅力的な物語を経て女王となったサーセイ。

彼女の魅力を二分したかのような悪役2人の存在によって、“悪役(とはちょっと違う気もするけど)”としてのデナーリスの一面はこのふたりが退場する段階まで綺麗にカバーされていました。

ふたりが立て続けに倒れた今、予告編に映るデナーリスの後ろ姿には、恐怖が満ちています。

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S2E10で黒魔術師によって見せられた、崩壊し灰が舞い散る王都のビジョン。

あの時点からデナーリスが王都を焼き払う展開は決まっていた事を考えると、ここまで積み重ねられてきたものは全てあの瞬間のためにあったのだと思います。

原作者ジョージ・R・R・マーティンは、「読者にショックを与えたい」的なコメントをしているぐらいですし。

その試みは、大成功と言えるでしょう。

 

【追記】

それでも私は、デナーリスっていうキャラクタ―が大好きです。

FUNKO POPのドロゴン付きデナーリス持ってるくらい。

↓これね。これ↓ 

 

ソフィー・ターナーやメイジー・ウィリアムスもそうだけど、当時演劇学校を卒業したばっかりでほぼ無名のエミリア・クラークをこんな大役に抜擢したHBOにも、その期待に十二分に答えた彼女にも拍手を送りたい。

 

泣いても笑っても来週最終回。

 

 (ブロンはどこいった!)

 

↓↓シーズン8<最終章>各話感想↓ ↓

 

※画像は全てimdbより引用